2011年2月22日火曜日

「傾聴と共感」の危険性 2 「わかる」



昨日の続きです。


病態域の水準によりセラピーの方向は異なるものとなります。神経症治療を目指していたフロイトのセラピー、比較的健康な方を対象とするロジャースのカウンセリングなどは、内省によるアン・カバーリング(カバーを外すこと)を目指していますが、統合失調症など精神病域、或いは、深いパーソナリティー障害(傾向)の方とのセラピーでは、カバーリング(カバーすることができるようにする)が不可欠となります。


つまり、対応方向は真逆なものになります。精神病域の水準の方にアン・カバーリングや内省的な方法を進めた場合は、役に立たないばかりでなく、クライアントの妄想が始まる、或いは妄想、幻聴が強化されることも少なくありません。


また、パーソナリティー障害傾向のある方の状態が増悪(何とかご自身を支えていた力が破けて、依存せざるをえない状態や強烈な怒りの爆発など)することも少なからず見受けられます。


こうした危険は、病態域の水準により、「傾聴」や「共感」にもあてはまります。とにかく聴く、そして、共感するというのは万能ではないということです。


やはり、そこには「見立て」が必要となります。「見立て」なく開始される(やみくもな)ものは危険な行為となりかねません。やはり、あらゆる方法、療法やさまざまな流派が主張するところのある種の万能感や教条的な受け取り方から抜けて、目の前のクライアントに目を向け、その方の状態、病態域の水準を見立てること、学ぶことが必要です。


以前、ロジャースの「パーソナリティー変化の必要にして十分な条件」という資料をただ挙げたことがあります。http://csct-peau.blogspot.com/2011/01/44.htmlk かつて心理学者の大きな支持を得て日本にも導入され、そして、今でも多くのカウンセラーに影響を与えているロジャースの「非支持的」「クライアント中心」という考えは、もちろんメリットもありますが、やはり、デメリットもあるということを考慮しておく必要があります。そして、どの領域(対象)に対応してのセットなのかということを念頭おいて捉えるかということも大切です。何事も何かがすべてではなく、また、そこに留まることなく更なる工夫を重ねていきたいと思います。


昨年亡くなられました土居健郎氏は「わかる」ということが、病態域の水準によっては異なって理解(誤解)されると述べられています。なるほどと思います。


「わかられている(統合失調症圏)」 「わかりっこない(躁鬱病圏)」 「わかってほしい(神経症圏)」 「わかられたくない(精神病質圏)」など、このように 「わかる」ということ自体が異なっている場合があります。


カウンセラーは、ロジャースの言葉を借りれば、自身が中立的であればクライエントを理解できると教えられ、そして、理解できると思いがちですが、それはクライエントがカウンセラー自身と同様な物の捉え方や内界の理解をしていることを前提としての事です。クライアントの物事の捉え方や内界での理解の違いを知らないままでは、クライエントの視点でクライアントの捉えている事象や内面を観ることは難しく、危なっかしい思い込みに過ぎない営みが起きているということにもなりかねない場合があります。


たとえば、「わかられている」という恐怖をわかり、「私にはわからないな、・・・・・ 不思議だね。」と「理解」を伝えることが対応となる場合もあります。「見立て」というとある種の偏見やレッテル張りと感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、クライアントの視点からその世界を共に捉えようとする、取り組み方の一つの工夫と考えていただけると、そこにサポートを目的としてのメリットが生まれると思います。

2 件のコメント:

ジャンヌ さんのコメント...

「パーソナリティー変化の必要にして十分な条件」を、一にも二にも習ってきたようです。

しかし考えてみれば、「あたかも」であったとしても感情を主にした共感は難しいです。

共感を膨らませて、そして、供体験ですね。
供体験であれば、じゃましない事につながるのでしょうか。
ラジヲでもチューニングが合ったときは、心地良いです。

うそ、秘密、葛藤についても、とらえ方や理解において
それぞれの前提がありますね。
なので、「見立て」の大切さが理解できます。

学んで、忘れてしまうほど柔軟に・・。
「論より現場」

ジャンヌ さんのコメント...

「パーソナリティー変化の必要にして十分な条件」
確かに一にも二にも 学んできたように思います。

嘘、秘密、葛藤についても、それぞれの領域で異なるとらえ方が、あるのでした。
「見立て」の大切さです。言語、雰囲気、生理的な様子
そして、DSMが見立ての手立てになるのですね。